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2021年5月1日土曜日

【大人の立石】 「立石駅北口地区市街地再開発組合設立」が認可され、葛飾 立石の再開発はどこに行くのか?

 

葛飾立石再開発予想図

葛飾区では、金町、高砂と並んで立石の再開発が注目されています。
そのなかでも立石は、区役所の移転が絡んで、なにかと話題になります。
この記事では、葛飾区立石の再開発について網羅的に解説しています。






目次

なんで再開発するの?

立石ってどこ?

立石は、葛飾区のちょうどまんなかあたりにあります。
京成電鉄押上線(押上 - 青戸)の途中にある京成立石駅を中心に広がっている街です。

京成電鉄路線図。立石駅
地図でいうと、このあたりです。

なんで再開発するの?

大きな理由は2つあります。

京成電鉄高架事業

ひとつは、京成押上線の高架事業です。
四ツ木-立石間は、平和橋通りなど東京東部の大動脈に踏切があることから、以前より高架化が望まれていました。こちはら、すでに2021年4月現在、工事が着々と始まってきています。
高架化によって、11の踏切が廃止されます。

こちらの記事もどうぞ。

安心・安全な街づくり

もう一つは、じつはこちらのほうが深刻かもしれませんが、立石駅周辺が「安心・安全」に住める街ではなくなっているという現実です。
最近でも2018年07月の「地震に関する地域危険度測定調査(第8回)」においても、京成立石駅周辺は、危険な地域と認識されています。
東京都が結果を発表した「地震に関する地域危険度測定調査(第8回)」によると、立石駅北口地区第一種市街地再開発事業の範囲内となる「立石4丁目」は建物倒壊危険量では1ヘクタールあたり11.91棟が全壊する危険性があり、順位は島嶼部を除く都内の全5177カ所(町丁目)のうち118位だった。火災危険量も1ヘクタールあたり6.75棟が全焼する危険があり、順位は159位だった。また、総合危険度でも順位は172位と都内でもかなり上位に位置している。同じく北口地区の再開発事業範囲内となる立石7丁目では建物倒壊危険量では1ヘクタールあたり11.16棟が全壊する危険があり、順位では153位とこちらも上位に位置している。(東洋経済HP)

現在の計画

葛飾区立石の再開発ですが、いまのところ最終的にはどんな形を目指しているのでしょうか。
葛飾区の資料から確認してみましょう。

まず、京成立石駅を中心とした再開発は、「北口地区」と「南口地区」に分かれています。
南口地区の再開発は、まだ具体化されていない部分が多いので、この記事では北口地区の再開発のみを扱っています。

エリアは、上記Google Mapの北側の土地です。



葛飾区のHPによると、最終的にはこのような建物になるようです。
西街区東街区
敷地面積約7,130平方メートル約4,660平方メートル
建築面積約4,900平方メートル約3,260平方メートル
延べ面積約79,200平方メートル約41,100平方メートル
容積対象床面積(容積率)約57,000平方メートル(約800%)約32,600平方メートル(約700%)
主要用途住宅、店舗、駐車場、駐輪場事務所、店舗、公益、駐車場、駐輪場
住宅戸数約650戸-
規模・構造地上35 階・地下2 階 高さ約120m 鉄筋コンクリート造、一部鉄骨造地上13 階・地下3階 高さ約62m 鉄筋コンクリート造

立石再開発の経緯

まずは、これまでの立石再開発の歴史を見ておきましょう。
わかりやすいように、最近の出来事が最上段に来ています。
2021.04立石駅北口地区市街地再開発組合設立認可
2018.12参加組合員予定者として、東京建物株式会社、旭化成不動産レジデンス株式会社、一般財団法人首都圏不燃建築公社を選定、組合設立説明会を開催
2018.05全体説明会(従前資産評価、資金計画、スケジュールについて 等)を開催
2018.04税務説明会を開催
2017.12全体説明会(従前土地評価・補償、施設建築物基本設計について 等)を開催
2017.11補償勉強会を開催、施設計画検討会を開催
2017.10家主様向け勉強会を開催
2017.09施設計画検討会を開催
2017.08全体説明会(従前資産評価の考え方、補償について、現況測量及び建物調査の実施について等)を開催
2017.066月6日に都市計画決定・告示されました
2016.11都市計画手続き開始に向けた再開発説明会を開催
2016.06総合コーディネーターに協同組合都市設計連合を選定
2016.05都市計画素案作成に向けての経過報告会を開催
2015.05施設計画経過報告会を開催
2015.04『噂の東京マガジン』(TBS系)で、再開発反対派の話題が取り上げられる
2014.11都市計画コンサルタントに株式会社日本設計を選定
2014.10葛飾区より「区庁舎整備基本構想」が発表され、立石北口地区が総合庁舎の最優先候補地となる
2008.12「準備組合」が事業協力者として旭化成不動産レジデンス㈱と一般財団法人首都圏不燃建築公社を選定
2007.10「再開発研究会」が「立石駅北口地区市街地再開発準備組合」を設立
2003.11京成電鉄:連続立体交差事業がスタート
2001.01交通広場に係る都市計画決定
1998.04葛飾区が「立石駅周辺地区まちづくり事務所」を開設
1997.03立石駅北口地区権利者が「立石駅北口地区再開発研究会」を発足
立石駅北口地区市街地再開発準備組合HPからオトカツが加筆

区役所が駅前再開発の高層ビルに移転する計画があります

葛飾区役所新庁舎イメージ画像


総合庁舎についても、平成26年10月に「葛飾区総合庁舎整備基本構想」を策定し、「安心・安全を支える おもてなしサービスの拠点」を理念として、めざすべき庁舎の役割・機能・規模などの方向性を示すとともに、最優先候補地として「立石駅北口地区」で計画されている再開発事業で建てられる建物の床を取得し、移転することを選定しました。(葛飾区役所HP
 
しかしながら、莫大な税金を使っての、駅前ビルへの移動については、根強い反対もあります。

再開発に反対意見もあります

京成立石駅周辺の再開発には、反対意見もあります。
その大きな理由は、人と人のつながりが壊れてしまう、というもののようです。
再開発で建った高層ビルは家賃が高く、個人店舗は入居しづらくなります。その結果、大手チェーン店ばかりなってしまい、街の風情も壊れます。
また、再開発によって街の活気は失われ、京成立石の魅力が亡くなってしまうことを危惧しているようです。

これには、葛飾区議の梅田信利さんも、いぜんから訴えていらっしゃいます。

 

立石駅北口地区市街地再開発組合設立認可

2021年04月28日に、立石駅北口地区市街地再開発準備組合に再開発の認可がおりました。
これにより、
東京建物、旭化成不動産レジデンス、首都圏不燃建築公社は市街地再開発組合設立に向け事業の推進に協力してきたが、後日開催される再開発組合設立総会を経て、正式に参加組合員として再開発事業に参画する。(流通ニュース

そして、今後は
2022年度の権利変換計画認可を経て2023年度に着工、2028年度の完成を目指します。(建設通信新聞

2016年5月14日土曜日

[大人の社会科] 立石→立石→立石 引っ越ししても立石から出ない葛飾区役所。そして次も立石!



先日「葛飾区役所って、移転するんだよね」


なんて話をしていたら、


「区役所は昔あの場所になくて」


って話題になったので調べてみました。




wikipediaを見ると

1932年の葛飾区発足時は、現・立石図書館付近の旧・本田町役場を区役所としていたが、1937年に現・かつしかシンフォニーヒルズの場所へ移転し、1962年に現在地へ移転し

とあります。


「葛飾区」 という区が出来たのが1932年(昭和7年)です。


「大東京」という35も区があった時代。あのスワローズの「東京音頭」に出てくる「と〜きょ〜、と〜きょう、だーいとーきょー」はこれですね。


初代葛飾区役所庁舎は、今の立石図書館のところにあったようです。
「葛飾区概要」より

これが初代の葛飾区役所庁舎です。


水道道路(江戸川水道)と本田小学校に挟まれた三角の土地のところですね。


もともとは本田村の役場だったとのこと。


そして最初の区議会は、本田小学校の体育館で行ったそうです。


しかしこの庁舎は5年しか使われませんでした。


1937年(昭和12年)に、現在のシンフォニーヒルズのところに移転します。


じゃーん


鉄筋の大きな造りの区役所ですね。


戦前の重厚なりっぱな建物ですね。


しかしながら、この区役所は空襲で焼け落ちてしまいます。


戦後新しく建てなおされますが、区制30周年を記念した1962年(昭和37年)、区役所は二度目の移転を行い、現在の建物となります。


そして現在は、京成立石駅前の再開発とともに、3度めの移転が決定しています。


区のホームページによると、移転は2024年(平成35年)頃だそうです。


ところで、この3つの区役所、住所が全部立石なんです。


初代区役所:葛飾区立石1-9-1

二代目区役所:葛飾区立石6-33-1

現在の区役所:葛飾区立石5-30-1

次の区役所も立石駅北口ですので、またまた「立石」。


なにかこだわりがあるんですかね〜〜

2020年1月25日土曜日

[大人の立石] 「わが町楽習会2020 - 立石の観光と宿泊(2回目) 立石はどんなところか」まとめ


わがまち楽習会第2回のテーマは「立石はどんなところか - 歴史的文化的資源を探る」

レクチャーは、葛飾区観光課学芸員の谷口榮さん


5回シリーズです。会場は立石地区センターです。



立石らしさとは?

立石はいま「せんべろの街」のイメージがある。でもそれは歴史の中から見たらほんの最近のこと。
立石はどんな街か、立石らしさってなにか、を考えた時、歴史的な位置づけや先人の営みを振り返る必要がある。

立石様

立石様の石はなにか?このあたりは縄文時代は海だった。そして山から流れる水に含まれた土砂が堆積したエリア。大きな石は人が運んできたもの。この石は、近くは柴又八幡宮の下に眠る古墳の石と同じ性質。おそらく鋸山から切り出したものであろう。

なぜ立石に古墳の石があるのか?

江戸時代以前にも東海道はあった。古東海道と呼ばれるものであり、葛飾エリアでは、千住のあたりから東にまっすぐ東へ、荒川、江戸川を越えた国府台のあたりまで。
その先には鋸山もあり、関東地方の古墳に必要な石を運ぶ際、古東海道が使われた。その際に立石で石の一部が残されたのではないか。

葛飾区という名前

昭和7年、葛飾区が区になる際、葛飾区とするか新宿区とするかで議論があった。葛飾で政治的経済的中心地としては、立石か新宿だった。

荒川放水路

荒川放水路は大正12年に開通する。荒川放水路の建設のために、朝鮮半島からの労働者がたくさんいた。彼らの口にあうように、工事現場周辺にあった葛飾エリアではモツを食べさせる店が増えた。
荒川放水路開通の前年に関東大震災がある。被災した人たちが荒川を越えて、葛飾に移り住んだ。人が来ただけではなく、工場や商業も葛飾に根付いていった。荒川放水路が完成しており、水運にも恵まれていた。工場が増えるに連れ、労働者のためのお酒、焼酎ハイボールの人気も高まっていった。

2016年12月30日金曜日

[大人の一丁目一番地(30)] 一丁目一番地は最終回。立石1-1に行ってきたよ。



さて、大人の一丁目一番地は最終回です。


最近は駅周辺の再開発やセンベロブームで有名になっている立石ですが、歴史が深くまた歴史に流されてきた町でもあります。


立石駅の南側には奥戸街道が東西に通っていますが、この道は古墳時代の頃より古東海道と呼ばれ、浅草あたりから房総方面へ伸びる主要街道でした。


この時代の主要都市であった関西方面からの情報や物資は、陸路ではなく海路で房総半島から関東地方に運ばれてきていたため、この古東海道沿いのある立石は古くから街があったようです。

立石様:かつまるガイドより

立石の名前の由来ともなっている立石様。


もとはこの周辺にあった古墳に使用する石で房総半島から切りだされてきた物のようです。



現在の立石の「呑んべ横丁」周辺は、戦後の闇市で人が賑わったあたりから出来上がった飲み屋街という印象ですが、どうやらもう一つ大きな理由があったようです。


日本では献血制度が主流となる1960年台後半まで「売血」という制度がありました。


1回血液を売ることで3,4日暮らせる程度のお金がもらえたことから、やみつきになる人もいたようです。


立石には日本製薬葛飾工場がありここで血液製剤を造っていたことから、売血者が跡を絶たなかったようです。

五木寛之さん


作家の五木寛之さんも、貧乏だった時代には売血に訪れていたようでした。
立石の製薬会社に、しばしば血を売りに行ってピンチをしのいだ。 この売血というやつは、肉体よりも、精神に悪い影響を及ばすものらしい。出かけて、二百CC抜いて、手取り四百円ほどもらってくると、二、三日は働かないで済む。つい習慣性におちいりやすい危険があった。....四百円を握りしめてたんぼ道を帰ると、遠くの景色が傾斜して見えた。もう二度と血を売るのはやめよう、とそのときに考える。だが、またどうにもならなくなると、京成電車に乗るのだった(『わが人生の歌がたり 昭和の青春』より)

そんな立石もいよいよ2017年から再開発が本格化しそうです。


また変わっていく立石を記事にしていきたいと思います。

2016年4月15日金曜日

[大人の一丁目一番地(3)] 東立石1−1を散歩してきたよ。本田ウリって知ってる?


さて、一丁目一番地です。


自宅に近いところから。今回は「東立石1丁目1番地」です。




エリアとしてはこんなかんじ。


このあたり、立石の南のような気がしますが、地名は「東立石」ですね。


立石という地名は、室町時代頃からあるようですので、現在の奥戸街道が古東海道だったころから立石は人通りのある土地だったようです。


新小岩の住人としては、この東立石に行くには、平和橋か本奥戸橋を渡るしかなく、ちょっと遠回りな場所。


奥戸の森永乳業工場と中川対岸の東立石緑地公園に橋を掛けてくれると、嬉しい場所。


おいしいお店もあります。


日本料理の魚つぐ、四ツ木製麺所、猪八戒NEO、などはこのエリアですね。


昔はどんな土地だったのだろう、と思って地図を引っ張り出してみました。


1920年の東立石です。


平和橋通り、ありません。


1912年開業の京成電鉄の線路がありますね。


その南側に広がる東立石。


一面の畑です。


京成電車で押上から来ると、本所の住宅街を抜けて、まだ建設途中の荒川を渡ると、線路の左右は一面の農村。


そんな感じの東立石だったようです。


畑でなにを作っていたのか?



本田ウリという野菜があったのですね。最近また栽培されているようです。




江戸時代中期以前から当地で栽培され、船に積んで江戸に運んでいたといいます。本所で獲れるウリと比べると大ぶりで格段においしいと評判に。日持ちも良いので良く売れたとか。江戸庶民が好んだ夏の水菓子(果物)でした。ちなみに三代将軍の家光も大好物だったようです。


なんて書いてあります。夏の水菓子なんて、いかにも江戸時代っぽいですが、関東大震災ぐらいまではポピュラーな野菜だったみたいですね。


そんな畑もいまではすっかり、住宅街ですね。

2017年10月26日木曜日

[大人の立石] さむい~夜だ~か~ら~♬担々麺にしました【立石担々麺火のき】





寒くなってきましたね〜

こういう日はやっぱり温かいものがいいですねぇ。

というわけで、今回は「火のき」さんに行ってきました。

2017年12月5日火曜日

[大人の立石] 裏原宿ならぬ裏立石(ウラタテ)の老舗「蕎麦厨やなぎや」さんの鴨せいろがうまい




今回は、立石です。

ガツガツ、ワシャワシャみんなで食べるのも楽しいのですが、ときにはしっぽり静かに食べたい。

そんな時はやっぱりお蕎麦屋さんもチョイスのひとつ。

今日はそんな気分でしたので、立石の【蕎麦厨やなぎや】さんに行ってきました。

関連ランキング:そば(蕎麦) | 京成立石駅


場所は立石駅から歩いて5,6分の住宅地。

いま再開発で話題の昭和レトロな立石駅前周辺をオモテとするなら、この辺りはさしづめ「裏立石」でしょうか。

略してウラタテ。

裏原宿(ウラハラ)に対抗してみたのですが、どうでしょう?


立石駅から区役所側を四ツ木駅沿いに歩いていくと、ステキな和色の暖簾が見えてきます。

何色っていうんでしょうね~。

梅紫色でしょうか、つつじ色でしょうか。

おしゃれで落ち着く色ですね。

暖簾をくぐって店内にはいると、4人がけテーブルが5,6卓、ほかにも個室、二階にお座敷もあります。

大きめなお店です。


飲み物を選んでいたら、若女将から「蕎麦ビール」をすすめられました。

蕎麦ビールってはじめてですね。

頼んでみると、濃いめの味がおいしい地ビールのような味。ホップと蕎麦って相性が良いのかもしれません。ほのかにお蕎麦の香りがします。

ネットで調べてみると
●容  量 :355ml
●スタイル :そばエール
●度  数 :3.0%
●醸 造 所 :ローグ・エールズ醸造所(オレゴン州)
●原 産 国 :アメリカ(北海道で蝦夷麦酒として販売)
●商品説明 :世界で初めて、そばの実を使用して醸造した発泡酒です。日本にも輸入されているアメリカ、ノースダコタ産のそばの実を 55%使用し、オレゴン産の二条大麦麦芽、ホップ、酵母以外の原料は一切使用していません。ヘルシーで体にやさしいビールです。
後味にそば茶のような香りと甘み余韻を残します。(楽天市場)
とありました。米国産でした。

今日のおすすめは、蛸料理が多かったので、つまみに「タコキムチ和え」「蛸のお刺身」をお願いしました。

蛸のお刺身
タコキムチ
蛸は新鮮で歯ごたえもよく、お酒が進みます。

やっぱりお蕎麦屋さんで食べていると、日本酒がほしくなりますね。

日本酒を飲むと、おつまみが増えていきますw


お蕎麦屋さんにいくと頼んでしまう、玉子焼き。

お寿司屋さんでは最後に食べますが、今日もこれでおつまみはうちどめ。


しめのお蕎麦は、鴨南蛮一択。これ以外ありません。


だって、こんなふうに書かれていたので。。。。

濃いめの出汁と醤油が鴨肉のあぶらと会って、蕎麦に絡みつきます。

蕎麦厨やなぎやさんは、夜は手打ちでお蕎麦を出しています。

のどごしの良い、後味の良いお蕎麦。

おいしいお蕎麦屋さんでした。

またきまーす。

蕎麦廚 やなぎやそば(蕎麦) / 京成立石駅
夜総合点★★★★ 4.7

2017年11月28日火曜日

【大人の立石】 フランス下町のビストロが、立石にやってきた?2017年10月オープン【ビストロ ハヒフヤ】



今回は、立石です。



立石って「呑兵衛の聖地」的なイメージがありますが、最近はいろんなお店もでき始めていて、再開発を目前にした新立石ともいえる流れが始まっているようです。

2017年12月1日金曜日

[大人の立石] 焼いて焼いて〜〜♬ 2時間3,980円飲み放題で大満足!【立石 ホルモン和敬】


12月に入って、忘年会シーズンですね。

みんなでワイワイ、となれば焼肉ですね。
立石でとても勢いのある焼肉屋さん【立石 ホルモン和敬】に行ってきました。

立石駅から奥戸街道沿いに向かって、徒歩5分程度。
関連ランキング:ホルモン | 京成立石駅

立石の仲見世など、いわゆる名所を辿ってお店につきますよ。


お店の外には、大きな店名の看板が!!

今日はもう、3,980円のコースって決めていたんです。

もう「これしかない!」ってチマタでは有名だったんです。

店内は、テーブル席で20席程度。

さて、ここからは出てきたお肉を、並べていきますよ!








部位はね、詳しくないのですが、これだけの種類が出てきますよ。

そしてこれらの焼肉は、お店特性のタレで食べます。

これがまた絶品。甘すぎず、主張しすぎず。

3,980円は、種類は限られますが、飲み放題ですからね。

これは行かない訳にはいきませんね。


立石ホルモン 和敬ホルモン / 京成立石駅
夜総合点★★★★ 4.6

2016年7月18日月曜日

[大人の葛飾有名人] つげ義春の本田小学校時代は、漫画家になるためのエネルギーをためた場所


いろいろ掘り返してみると、葛飾出身の有名人は多種多彩。


そこで、不定期ながら、葛飾の有名人を紹介していくシリーズ第1回目は、しぶいところで「つげ義春」。




ちょっとご高齢なので知らない人もいるかも知れませんが、『ガロ』世代の漫画家さんです。


シュールな漫画家さんです。


お生まれは1937年、立石です。

板前の父・一郎と、同じ旅館のお座敷女中の母・ますの次男として、葛飾区立石の中川べりの船宿(母の実父の家)で生まれる (wikipedia)
時代ですねぇ。


立石の中川べりに船宿があったんですね。



1930年の地図でも、なにやら船のマークのようなものが見えます。


渡し船があったのでしょうか?


この地図には本奥戸橋がまだありませんので、この船宿?は大切な役目を担っていたのかもしれませんね。


つげ義春はこの船宿で生まれ、1944年本田小学校に入学します。


しかし時代は戦争末期。

当時は空襲が激しく、ろくに通学もできなかった。

この頃、自宅付近の中川べりで不発弾処理を見学中に近くに被弾した爆弾のために土手から転落、軽症を負う。

また、近くにあった高射砲がB-29を撃墜し真っ二つにする光景を目撃する。

1945年3月10日の東京大空襲の後、空襲を避けて兄・政治に続き新潟県赤倉温泉に学童疎開する (wikipedia)

かつて白鳥の高射砲については記事を書きましたが、「近くにあった」高射砲とはこれとべつに高射砲が設置されていたのかもしれませんね。



さて戦争が終わって、つげ義春は立石に帰ってきます。

1947年には、立石駅前の闇市で母が居酒屋を経営するが半年ほどで廃業。

さらに、妹が生まれるなど生活は困窮。

1948年には葛飾区立石駅近くの廃墟のようなビルに無断入居。総勢8名の大家族であった。

また、義父の発案で立石駅でのアイスキャンデー売りなども経験する。

こうした生活で1年休学する。つげは進学せず兄の勤め先のメッキ工場に見習い工として就職する。

親友Oができ、Oの家に泊まりこみ帰らない日々が続く。

Oの家は中華そば屋であったため、毎日ワンタン作りを手伝う。

出前持ちとして朝9時から夜2時まで働く。

時には赤線への出前もあり、赤線の女にからかわれたりする。

この頃、同じそば屋に戦争で両親を失くした同い年の美しい少女が働いており、彼女に誘われ休日に一緒に映画館へ行く。(wikipedia)

立石・四つ木界隈は、戦後メッキ工場が集中しました。


つげ義春はそのど真ん中に生活をしていたのですね。


そして立石のもうひとつの顔、闇市、赤線。


闇市のあと、立石は米軍進駐軍の黒人向けRAA(Recreation and Amusement Association:特殊慰安所)となりましたので、つげ義春が出前に行った先はRAAだったのかもしれません。


つげ義春は、戦後の葛飾にどっぷり浸かって子供時代を過ごしています。


そんな生活から漫画家を目指す1953年(昭和28年)。


朝鮮戦争が終わり、日本は高度成長への準備を整えていくこの時代、つげ義春も葛飾から大きく飛躍していったようです。

2017年1月10日火曜日

[大人の立石] 立石担担麺「火のき」で数量限定味噌坦々麺を食らう





ことしの初ラーメンは、立石の「火のき」です。


中華麺のなかでは担々麺はお気に入り。


葛飾では猪八戒NEO(立石)新新飯店(青砥)の担々麺がおいしいところですが、今回の立石担々麺は、麺心國もと(高砂)や麺屋武蔵で修業なさったご主人のお店とのこと。


期待が持てます。


場所は京成立石駅から葛飾区役所に伸びる商店街にあります。


駅から歩いてすぐです。


白い提灯が目印です。




お店の前に看板が出ていました。


数量限定 味噌坦々麺!!


味噌味大好きな私としては、見逃せない一品!!!


それも数量限定!!!



お店はカウンターだけ10席程度のお店です。


朱色の器に、赤い汁が目を引きますね。


野菜やまもり、ひき肉やまもり!



はじめ赤い汁でしたが、ご主人に「食べる前に底からかきまぜてください」と言われ混ぜてみるとこの味噌スープとなります。濃厚胡麻スープが底に沈んでいるのですね。



汁を飲んでみると、辛すぎない胡麻の味、強すぎない花椒、しっかりした味噌の味。


うまいです。


味噌の味に、胡麻と花椒の味が上手く乗っていて後を引きます。



麺は、ストレート系の麺。


やや太め。


個人的にはうまいスープには太目の麺がうまく絡むと思います。


麺が太いぶん、噛みごたえと存在感があり、そこに旨いスープが絡んできます。


うまいです。


担々麺好きにはぜひ体験してほしい味です。


関連ランキング:担々麺 | 京成立石駅青砥駅

立石担担麺 火のき担々麺 / 京成立石駅青砥駅
夜総合点★★★★ 4.5