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2017年8月28日月曜日

[大人の区境を行く(9) 最終回] 西亀有から綾瀬駅方面。この入り組んだ区境の謎を歩く(2)




前回の「大人の区境を行く」は、西亀有から常磐線の南側をUの字に旋回している足立区との境界を歩きました。

今回は綾瀬駅周辺をたどります。


これは綾瀬の法務局のそばにあるスーパーアタックのあたりです。



地図にある点線、右下から中央に歩いてきたところです。

写真の通り古隅田川は直進しているのですが、地図にある区界は北上しています。

川がにしにまっすぐ伸びているのは、綾瀬駅周辺の整備によるものではないかと思います(まちがってたら教えてください)。

ずっと古隅田川を歩いてきたような気がしているのですが、「区境を行く」のが本来の目的でしたので、北上していきます。


北上すると、道路が車線で左右に別れ、真ん中に駐輪場が出現します。


駐輪場は工事も行っていたのですが、看板にはなんと「古隅田川を整備しています」とありました。

綾瀬駅周辺の古隅田川は暗渠となっており、その上が駐輪場となっていました。




川があった証拠に、川にかかる道路には橋げたのあとが残っていました。


橋げたはあちこちにあり、おそらく意図的に残しているものと思われます。

しかし綾瀬の駅前で「富士見橋」とはオツですね。

方角的には西の方に伸びるみちですが、ほんとに富士山見えたのかなぁ。

もうこのへんは駅前です。




この地図の常磐線と平行に走る区界も暗渠、その上に駐輪場となっていました。


圧巻なのは、このカーブ。




大きく常磐線方面に川がまがっていますが、現在もそのまま暗渠となっているようでした。


そして常磐線綾瀬駅南側に出ます。

区境をこの道の上にありますが、古隅田川はふたたび常磐線の北側に伸びているようでした。


そして、区境は綾瀬駅のロータリーの道を南下していきます。



南下したさきにある華屋与兵衛向かいにあるしらさぎ公園に流れる川は、今回の散歩の出発点となった、法務局前に川でもあります。

この先区界は小菅方面から荒川へと抜けていきます。


今回の散歩はここまでと思っていたら、小菅に抜ける古隅田川には「えちぜんばし」の名前が。

江戸時代の各藩のお屋敷があった、隅田川周辺まででしたら、藩の名前のついた橋があってもおかしくないのですが、なぜ小菅に陸前橋?

この散歩、最後に宿題を残された気分でした。

また調べてみますね。

大人の区境を行く]はこれで終了です。最後までお読みいただきありがとうございました。

2017年8月21日月曜日

[大人の区境を行く(8)] 西亀有から綾瀬駅方面。この入り組んだ区境の謎を歩く(1)




今回は、皆さんご存知綾瀬駅周辺の入り組んだ区境を歩きました。

2017年8月2日水曜日

[大人の区境を行く(7)] 古隅田川を歩く(前編)

1900年ごろの古隅田川



前回までに、新小岩の南口から時計と逆回りに新中川までやってきました。

前回までの「区境を行く」はこちら

今回は、新中川を上流に向かった中川に架かる中川橋から古隅田川を辿ります。

2017年5月25日木曜日

[大人の区境を行く(6)] 東京拘置所(小菅)に行ってきたよ。拘置所正面はこんなディープなお店ががが。

wikipedia



今回の「区境を行く」は、小菅です。




この地図のうち、首都高速三号線から左側がテーマです。

このエリア、北部に東京拘置所、南部に小菅水再生センターがあり、民間の土地がほとんどありません。

そこで今回は、北部の東京拘置所を扱います。



東京拘置所の歴史


すでに一丁目一番地「小菅」にも書きましたとおり、東京拘置所は明治時代には「小菅監獄」として囚人を収容する機能がありました。

1900年小菅監獄
監獄では、明治初期に起きた新橋銀座地区の大火に対応した煉瓦造りが矯正作業のひとつでした。


今回東京拘置所周辺を歩いていても、正面玄関付近に煉瓦が置かれていました。

この煉瓦は、銀座の路地や建物、法務省庁舎などに使われており、明治時代には煉瓦といえば小菅というブランドだったようです。

戦後、都市計画にしたがって巣鴨にあった東京拘置所が、この小菅に移転してきました。

巣鴨の跡地は、現在サンシャインシティですね。

ちなみに東京拘置所に収監されているのは、関東、中部地域の死刑が確定した囚人です。


拘置所の周囲を歩いてみた



東京拘置所のまわりを一周してみました。

残念ながら、拘置所の建物に対して写真を取ることは禁止されているとのことでしたので、拘置所の写真はありません。

東京拘置所の北と西は、お堀に囲まれていました。

この場所は、江戸時代「小菅御殿」と呼ばれた将軍の鷹狩の際の休憩所でもありましたので、江戸時代からおそらくお堀があったのかもしれません。

また、東京拘置所の南が正門、東が綾瀬川であることを考えると、残る北と西にお堀があったのは偶然ではないのかもしれません。


拘置所のお堀沿いは、遊歩道が整備されていました。

デリケートな場所だけに、地域にいろいろな配慮が必要なのかもしれません。


西側までまわると、滝まで整備されていました。


正門付近には、こんなディープなお店が


正面玄関に通じる通りには、あまり見ないお店がありました。


「保釈保証金建て替えします」という看板が。

あ〜、そういう需要あるんですねぇ。

しかし、失礼ながら回収できるのでしょうかねぇ。

ちょっとディープな感じになってきましたね。


住宅と拘置所しかないところで、テーラー?

保釈された時にスーツを準備できるようにでしょうか?

考え過ぎ?


極めつけは「池田屋差し入れ店」

差し入れ店?

駄菓子屋さんのような構えのお店は、実は拘置所に無くてはならないお店。

東京拘置所内の本人に差し入れを行いたい場合に、利用されている売店です。
差し入れ品をすぐに買いたい場合、最寄の売店の一つになります。
また、菓子や食事などを差し入れたい場合、池田屋などでの購入品でないと、差し入れできません。
また、同じようなことは、布団など他の差し入れ物でもあります。そのため、池田屋はよく利用されています。
なお、東京拘置所内に、「両全会」という売店もあります。こちらでも、概ね、同じ扱いです。東京拘置所完全ガイド
東京拘置所に認められたお店なんですね。

なんでも
店内の棚で目につくのは、やはり日持ちする缶詰食品の類ですが、場所柄、凶器になり得るプルトップ式は禁止されています。『大東京23区散歩(泉麻人)』
だそうです 。

いろいろあるのですねぇ。

小菅の東側は、古隅田川が関係する違った意味でディープな区境ですが、それはまた別の機会に。

2017年4月28日金曜日

[大人の区境を行く(5)] 新中川を超えて、細田・鎌倉~京成小岩へ。区境を超えるとそこは...

柴又街道京成小岩踏切


目次



前回の境川親水公園~新中川では、川に沿って区境があったことから、あまり苦労せずたどれたのですが、今回はなかなかたどることができませんでした。

赤いところが葛飾区です。

区境がギザギザ。

どんな示し合わせがあって、この区境になったんでしょうねぇ。

というわけで、今回は区境をたどることは、なかばあきらめ。

でも、歴史をたどると、なかなか面白い土地でしたので、紹介しますね。



江戸川区の土地整理事業(昭和14年)

1920年代
1920年(昭和10年)ごろの、細田・鎌倉地区です。

総武線も開通しており、小岩の駅もあるものの、駅の周りは見渡す限りの田畑です。

おそらく平らな土地でしたから、北の方を見渡せば、きっと帝釈天のほうまで見えたのではないでしょうか。

1939年
そんな小岩周辺も、1939年(昭和14年)になると、区画が一変します。

総武線、京成線の沿線を中心に、区画が整理されていますね。

JR小岩駅周辺の変遷

更新日:2014年10月28日
  • 明治32年
駅開業 
  • 昭和2年から昭和5年
駅周辺商店会結成 
  • 昭和10年から昭和14年
駅周辺耕地整理事業 


 江戸川区のホームページをみると、「昭和10年から昭和14年:駅周辺耕地整理事業」とありますね。

この時期にきれいになっているのですね。

いっぽうの葛飾区は

1939年の地図をもう一度見てみましょう。


境界線を描いてみました。

都市計画がされているのが江戸川区、まだ計画がされていないのが葛飾区です。

昔の地図を見る限り、葛飾区に都市計画が導入されたのは戦後のようです。

というのも、明治時代の葛飾区は、鎌倉、奥戸、細田、曲金(高砂)など集落が点在しており、都市計画がしづらかったのに対し、江戸川区は小岩村以外に街道沿いの大きな集落が少なく、区割りがしやすかったのではないかと思っています。

2017年4月16日日曜日

[大人の区境を行く(4)] 江戸時代の用水路中井堀はいまも総武線の下に健在

ニトリ小岩店前から中井堀通りを臨む


前回の小松川境川親水公園の区境を見てから少し時間が経ってしまいました。

やっと暖かくなって、チャリ日和が戻ってきましたので、これから精力的に区境を散歩してみたいと思います。


今回は、前回の境川親水公園の端から時計と反対周りに進みます。

今回のルート

スタートは地図左下の小松川境川親水公園の出口から。


手前が親水公園。

信号を渡った先はいまは普通の道路ですが、1970年代までは川が流れており、区境をなしていました。


進んでいくと、きれいなカーブを描いています。

水の流れが作ったきれいなカーブのまま道路にしたような感じですね。


道なりに進んでいくと、総武線の線路にぶつかりました。


青い区境の右側は、江戸川区上一色1丁目です。

この総武線にぶつかる区境は、上下にまっすぐ進んでいます。

いままで見てきた小松川のような自然が作り出したカーブがなく人工的です。

それもそのはず、このあと北上してみるとわかりますが、この道路は中井堀と呼ばれた葛飾農業を支える水道インフラの跡であります。


もう水は流れていないのか、と思いましたが、先程の突き当たりにある公園に戻ってみました。


するとびっくり。総武線の線路の下には中井堀が残っていました。

水元小合溜から流れ出る水をあつめた中井堀は、どうやら昔のままのルートで総武線を超えて下流へと流れているようです。

この水、覗いてみるとそれほど汚れていないのか、だれかが放流した亀が5匹とフナがたくさん泳いでいました。

こうなると、総武線ガードの北側はどうなっているのか、気になります。

2017年1月18日水曜日

[大人の区境を行く(3)] 都内唯一のレンガ造りアーチ橋「弐郷半領猿又閘門」




今回の「大人の区境を行く」は、葛飾区の北限(笑 大場川沿いです。


地図を見てみましょう。




左の地図は1900年頃の大場川と中川の合流地点あたり。右の地図は現在です。


左の地図では中川が大きくU字になって大場川を合流させていますが、1950年代には右の地図のように中川は直線となり、大場川はより西側で中川で合流することとなります。


今回の話題はこのU字型だったころの中川と大場川の合流地点にあった「弐郷半領猿又閘門」。


上の地図では青い丸印のところにあります。


「にごうはんりょう-さるまた-こうもん」


と読みます。


弐郷半領とは、大場川の北側の地名。


猿又は、少し前まで水元猿町と呼ばれた大場川の南側の地名。

その間にある「閘門」ということですね。


閘門(こうもん)あるいはロック(英語: Lock)は、水位の異なる河川や運河、水路の間で船を上下させるための装置である。閘門の特徴は、固定された閘室(前後を仕切った空間)内の水位を変えられることで、これに対して同じく船を上下させるための装置であるケーソンロック(Caisson lock)、ボートリフト、運河用のインクライン(Canal inclined plane)などでは閘室自体を上下させる。

本来は水の量を調節することで、船の航行などに利用するものです。


しかしこの古利根川(中川)は水量が一定せず氾濫も多かったことから、大場川や小合溜(現在の水元公園)に増水時に水を引き込み、水量を安定させるために作った閘門でした。




橋に設置された説明を読むと、江戸時代は木の橋だったようですが、明治時代金町に煉瓦工場ができたこともあり、この閘門をレンガ造りにしたとのことです。


金町の煉瓦工場については、以前ブログで書きましたのでこちらを参考にしてください。


金町では銀座路地のレンガを作っていたのですから、この閘門のレンガと銀座のレンガは同じということですね!



小合溜(大場川)側からみた閘門です。



寄ってみると重厚なレンガです。


3つのアーチからなっています。



下流側のアーチは数が多いですね。


真ん中のアーチを中心に、左に2つ、右に2つ、全部で5つアーチがあります。


上の写真(大場川側)は3つでしたから、複雑な作りをしていますね。



下流側には、ふたりの作業する人の小さな銅像があるのですが、この人達はなにをしているのだろう。


もしかするとこの堰の開け閉めをしているところかもしれませんね。



もう一度先ほどと同じ地図です。


閘門から右に赤く伸びた線は、葛飾区と埼玉県八潮市の区境。


八潮市の名前の由来は「八幡村」と「潮止村」などが一緒になったので「八潮」とのこと。


こんな内陸の地名まで「潮」という字がつくのは、江戸の昔でも中川を遡って東京湾の潮が逆流してくるぐらい、葛飾の土地は平坦で低地だったということですね。


2017年1月3日火曜日

[大人の区境を行く(2)] 葛飾区と江戸川区の区境「小松川境川親水公園」を歩く。葛飾区にはもう相撲部屋があったんだね。



2017年のテーマとしました「葛飾区の区境を行く」。


第1回は「小松川境川親水公園」です。


小松川境川親水公園は、葛飾区の南端にあり、江戸川区との区境となっています。


江戸川区のホームページでは、

古川親水公園に続く区内で2番目にできた親水公園。菅原橋から中川までの全長3,930メートル。全体は五つのゾーンに分かれ、滝に始まり、せせらぎ、水しぶき、飛び石、釣り橋に冒険船など変化に富んでいる。水遊びができない季節でも、ウオーキングをしたりアスレチックで遊んだり四季を通じて楽しめる。また、桜の名所でもある。
となっており、公園の起点は菅原橋にあるようです。

スタート地点

しかし菅原橋は江戸川区でもあり、今回は区境を歩くのがテーマですので、今回は小松橋を総武線線路の南に渡ったあたりからスタートです。


葛飾区の区界には、いまはない川をそのまま使っているケースが多いようです。

今回のルート
まだ葛飾区や江戸川区のあちこちが田園風景だったころ、小松川境川は農業用水としても役割はもとより、肥料や農作物を運ぶ川として重要な役割を持っていました。


小松菜などは小松川境川、中川を抜けて江戸に出荷されていたわけです。


しかし農業地域の川も、農地が工場や住宅地となるにつれ汚れていき、ドブ川となってしまいます。


そんな川も1993年には親水公園として蘇っています。


公園を歩いてみましょう。



この日は天気も穏やかで、日差しもよく、川面がきれいに光っていました。


公園の幅は10メートル程度ですがその両側には一方通行の道路も併設されています。


カモもつがいでお休み

川の水は新中川から採っているようですが、浄水ポンプもあちこちに設置されており、流れる水はきれいです。


カモも羽を休めていました。



滝もあります。



吊橋もあります。

水の流れを中心とした公園で、まさに「水に親しむ」親水公園ですね。


途中、公園沿いに相撲部屋を発見しました。

住所は新小岩3丁目。

葛飾区にはすでに相撲部屋があったのですね。

By ベースボール・マガジン社 (Baseball Magazine Co., Ltd.) - 『相撲』1961年6月号(夏場所総決算号)、ベースボール・マガジン社、1961年、p.112"SUMO" June 1961 Issue, Baseball Magazine Co.,Ltd, 1961, p.112,

鏡山部屋といえば、1969年に大横綱柏戸が引退し創設した相撲部屋。

多賀竜

関脇多賀竜が引退後部屋を継ぎ、現在では年寄鏡山として運営しています。



今日歩いたのは区境を形成している平和橋通りまででしたが、小松川境川親水公園はそのまま南西に下り、千葉街道を超えて中川にまで至ります。


全長は約4キロ。実に長い公園ですね。


桜並木もとてもきれいなようです。

次回は春に訪れてみたいですね。