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2020年6月12日金曜日

【大人の一丁目一番地】ブログが本になりました。『葛飾の一丁目一番地を歩く』


このブログから本(DTP)が出ました!

葛飾に30箇所ある一丁目一番地をめぐり、その土地のエピソードをまとめた『葛飾の一丁目一番地を歩く』。
Amazonの電子書籍Kindleで299円です。



葛飾の魅力再発見!

30箇所は少ないように見えますが、仕事の合間に全部を回るにはほぼ一年かかりました。行ったら住所表示板の写真を撮っていたのですが、再開発されると電信柱がなくなっていて、住所表示が見つけにくくなっていました。それでも各地の一丁目一番地を調べていくと、葛飾の知らないことが次々にわかり、やりながらも楽しい企画でした。

「葛飾ってなにがあるの?寅さん?」と聞かれることも多いですが、この本で葛飾の魅力を発見してもらえたら、と思っています。

目次紹介

はじめに
【①東新小岩】区内30箇所の一丁目一番地を目指します!
【②新小岩】荒川がなかったころは西井堀で潤う広大な田畑
【③東立石一丁目】本田村を引き継ぐ街
【④東四つ木】東四つ木の話からセルロイド?
【⑤西新小岩】荒川開墾以前は広大な農業用地
【⑥お花茶屋】京成電鉄の駅名にセンスを感じる
【⑦青戸】青戸?青砥?
【⑧西水元】メトロセブン、通らないかなぁ〜
【⑨鎌倉】愛国学園周辺は交通の要所だったかも!
【⑩金町浄水場】浄水場から伸びる水道道の先はどこ?
【⑪水元公園】水元公園の池って、葛飾区?三郷市?
【⑫金町】京成金町線はなぜ線路がまっすぐなのか?
【⑬南水元】穀倉地帯の一角にあった住宅街とは
【⑭奥戸】船着き場を中心とした水運の町
【⑮細田】旅客化が期待される新金線って、なんの線路?
【⑯新宿】道中奉行が支配した新宿に栄華を見る。
【⑰東金町】江戸時代には、金町に関所があったんだね。
【⑱堀切】大正初期まで、ちょっとしたピクニックの目的地
【⑲小菅】日本で最初の小学校は小菅だったかも
【⑳西亀有】陸前浜街道に賑わった街
【㉑高砂】ここはかつて諏訪野と呼ばれた土地。
【㉒白鳥】手打ちそばの「賀登利庵」さんがまさにソコ!
【㉓四ツ木】一ツ木、二ツ木、三ツ木、そして四つ木!
【㉔東堀切】明治時代の南綾瀬村は陸前浜街道とともにあった。
【㉕水元】葛飾区指定有形文化財「水元尋常小学校旧校舎」
【㉖宝町】宝町といえば、タカラですよね
【㉗東水元】戦後しばらくまでは水元地域最大の住宅密集地
【㉘亀有】大工業地帯から大変貌の街
【㉙柴又】京成金町線は京成電鉄創業の路線
【㉚立石】一丁目一番地は最終回。再開発に揺れる街


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2016年12月30日金曜日

[大人の一丁目一番地(30)] 一丁目一番地は最終回。立石1-1に行ってきたよ。



さて、大人の一丁目一番地は最終回です。


最近は駅周辺の再開発やセンベロブームで有名になっている立石ですが、歴史が深くまた歴史に流されてきた町でもあります。


立石駅の南側には奥戸街道が東西に通っていますが、この道は古墳時代の頃より古東海道と呼ばれ、浅草あたりから房総方面へ伸びる主要街道でした。


この時代の主要都市であった関西方面からの情報や物資は、陸路ではなく海路で房総半島から関東地方に運ばれてきていたため、この古東海道沿いのある立石は古くから街があったようです。

立石様:かつまるガイドより

立石の名前の由来ともなっている立石様。


もとはこの周辺にあった古墳に使用する石で房総半島から切りだされてきた物のようです。



現在の立石の「呑んべ横丁」周辺は、戦後の闇市で人が賑わったあたりから出来上がった飲み屋街という印象ですが、どうやらもう一つ大きな理由があったようです。


日本では献血制度が主流となる1960年台後半まで「売血」という制度がありました。


1回血液を売ることで3,4日暮らせる程度のお金がもらえたことから、やみつきになる人もいたようです。


立石には日本製薬葛飾工場がありここで血液製剤を造っていたことから、売血者が跡を絶たなかったようです。

五木寛之さん


作家の五木寛之さんも、貧乏だった時代には売血に訪れていたようでした。
立石の製薬会社に、しばしば血を売りに行ってピンチをしのいだ。 この売血というやつは、肉体よりも、精神に悪い影響を及ばすものらしい。出かけて、二百CC抜いて、手取り四百円ほどもらってくると、二、三日は働かないで済む。つい習慣性におちいりやすい危険があった。....四百円を握りしめてたんぼ道を帰ると、遠くの景色が傾斜して見えた。もう二度と血を売るのはやめよう、とそのときに考える。だが、またどうにもならなくなると、京成電車に乗るのだった(『わが人生の歌がたり 昭和の青春』より)

そんな立石もいよいよ2017年から再開発が本格化しそうです。


また変わっていく立石を記事にしていきたいと思います。

2016年11月25日金曜日

[大人の一丁目一番地(29)] 柴又1-1に行ってきたよ。京成金町線は京成電鉄創業の路線だった。



今回は、柴又一丁目一番地に行ってきました。



柴又1-1はもっと金町寄りか帝釈天のそばにあるのかな?と思っていましたが、意外にも京成高砂の車両検査区のそばでした。


柴又については帝釈天を中心に話題は尽きないのですが、今日は京成金町線のおはなし。


京成金町線は「都内唯一の『途中駅を持つ』単線路線」だそうです。


途中駅とは柴又駅ですね。


都内に単線路線は、足立区の東武大師線などもありますが、途中に駅を持つのは京成金町線だけだそうです。


さてこの京成金町線。


支線のような扱いですが、実は京成電鉄創業の路線でもあります。


京成電気軌道(現在の京成電鉄)は1909年に創立し、1912年11月に「押上‐市川(江戸川からは渡し船)」と「曲金(高砂)‐柴又」(京成金町線)を開業します。


しかしそれに先立ち、同じ年1912年の4月には「金町‐柴又」で営業していた帝釈天人馬鉄道を買収しており、現在の京成電鉄で初めて営業した路線は京成金町線ということになります。


帝釈天人馬鉄道ってなに?っていう方はこちらを参考にしてくださいね。ちょっとびっくりな路線です。


日本の私鉄は、神社仏閣への参拝客を運ぶ路線となっているものが多いですね。


京成電鉄も成田山への路線を申請しましたが、成田まで延伸されるのは1920年代。


都内では有数の人気観光スポットでもあった帝釈天への路線が大きな収入源となっていたようです。

2016年11月23日水曜日

[大人の一丁目一番地(28)] 亀有1丁目1番地に行ってきたよ。大工業地帯から大変貌の街



今回の一丁目一番地は、亀有です。


亀有は、金町と並んで葛飾北部の中心地的存在ですね。


亀有1-1は、意外にも駅から遠いところにありました。


なんでここなんでしょうねぇ。


閑話休題


亀有駅の乗降客数も長い間(30年間以上)一日の乗降客数3万人台後半で推移していましたが、3年前はじめて4万人台となり、昨年は41,000人を突破しています。


まだまだ大きくなる街のようです。


ちょっと歴史を遡れは、亀有は1970年台までは葛飾最大の工業地帯でありました。


中川からの用水が使え、また水運を活用でき、鉄道でも都心までつながっている地の利に優れた土地だったからでしょう。


亀有周辺には、「三共製薬亀有工場」「日本紙業」「日立製作所」(大谷田)「三菱製紙」(金町)などの大工場がありました。

1960年代の亀有周辺
この地図は、1960年代の亀有駅周辺の大工場を表しています。


左上の大きな円から時計回りに


日立製作所(大谷田)


三菱製紙(金町)


日本紙業


三共製薬


です。


これだけの工場があれば、亀有駅周辺が栄えないわけありませんね。


おそらく数万人の工場で働く人たちが亀有駅を利用していたに違いありません。


しかし、これらの工場も70年代後半以降、時代の流れとともに撤退していきます。


日立製作所→中川下水処理場→中川公園


三菱製紙→東京理科大学その他


日本紙業→アリオ亀有


三共製薬→東部地域病院


日本紙業については、以前ブログで書いたことがありましたので、ご参考になさってください。ブログはこちら

はじめにも触れましたが、亀有駅の不思議なところは、工場がなくなって労働者が減っていったにも関わらず、駅の利用者が減少していない点です。


70年代までの工業地帯から21世紀には、住宅地、ショッピングゾーンへとうまく移行できた街なのかもしれません。


そう言えば、亀有駅から日立製作所まで、貨物支線が出ていた時代があります。


この地図の赤い線が、貨物引き込み線です。


金町から三菱製紙にも支線が延びていたように、大きな工場には製品や原材料を貨物で運ぶ需要が大きかったのですね。


地図で見ると、戦前からこの引込線はあったようですので、はじめは軍事用に引かれたのかもしれませんね。


この引込線の跡地を一度たどってみたいと思っていますが、もうあまり残っていないようでちょっと残念です。(この話題はこちらのブログが詳しいです)


さて、この一丁目一番地シリーズもあと2箇所を残すのみとなりました。


今年中に30箇所を踏破できたらいいですね。

2016年11月17日木曜日

[大人の一丁目一番地 (27)] 東水元一丁目一番地に行ってきたよ。戦後しばらくまでは水元地域最大の住宅密集地




今回は東水元一丁目に行ってきました。


このエリアも住居表示がほとんどなく、トップ画像も交差点の写真となってしまいました。




地図にあるように、東水元は水元公園の西側に南北にながーい街です。


トップ画像の東水元1-1は、一番南の金町駅よりの南水元交番の交差点にあります。


東水元は、戦前ぐらいまでは葛飾区の常磐線から北エリアでは、もっとも集落の集まったところ(水元村)だったようです。

小合溜の豊富な水量と、水元村(水元小合溜から飯塚までの広いエリア)のほとんどを占めた広大な水田に挟まれた東水元は、今も残る延命寺を中心とした村でした。


昔からの集落だったこともあり、寺院の多いエリアです。熊野神社、 日枝神社、 薬師堂、 延命寺、長伝寺、 蓮蔵院、 南蔵院、遍照院などがあります。


南蔵院は、縛られ地蔵で有名ですね。


縛られ地蔵の記事は、こちらからどうぞ。


さて、この一丁目一番地の記事も27個まできました。


葛飾区の一丁目一番地はちょうど30個です。あと3つ、年内に書き終わりたいと思っています。

2016年11月12日土曜日

[大人の一丁目一番地(26)] 宝町1丁目1番地に行ってきたよ。宝町にはアノ経営者も修徳高校出身のプロ野球選手もいた。



今回の一丁目一番地は、宝町です。


「宝町」というと、都営浅草線の宝町駅を思い浮かべる人もいると思いますが、葛飾で宝町といえばココ。



現在の京成本線お花茶屋駅の南に広がる

宝町の地名は以前、「宝木塚」という場所でした。


西光寺を中心として、南北に神社(八幡神社、稲荷神社)を構える村です。


東に水量豊かな曳舟川を持つ恵まれた田畑が広がっていたと思われますが、宝町の地番えのエリアの半分ぐらいは、宝木塚村の居住地域だったようです。


現在「宝木塚」の地名は神社にも残っておらず、かろうじて宝木塚小学校に名前が残っていますね。


宝町といえば、「おもちゃのタカラ」ですよね。




先日タカラ創業者の佐藤安太さんの著書を読み、ブログにも書きました


まさに戦後の成長期にビニール産業で飛躍した、時代の波に乗った経営者でしたね。



そして宝町が産んだプロ野球選手といえば、現在中日の三ツ俣大樹選手ですね。


宝木塚小学校ー大道中学ー修徳高校と進学後、甲子園は逃したもののドラフトではオリックス2位で指名された選手です。


プロの壁に悩んでいるようですがまだ24歳です。がんばってほしいですね。

2016年10月26日水曜日

[大人の一丁目一番地(25)] 水元1-1に行ってきたよ。葛飾区指定有形文化財「水元尋常小学校旧校舎」をみる。





葛飾区水元1-1に行ってきました。




水元地域のど真ん中。葛飾区水元は、三角の土地です。


水元一丁目一番地は、この三角形の左下の角にあります。


水元は、他の葛飾区の大部分と同じく、江戸時代以降は広い田んぼの広がる農村地帯でした。

とくに水元は、いまもそうですが、鉄道機関が遠く、静かな田園風景が広がっていたものと思います。

「位置ニ於テ都心ヲ遠サカレル水元村ハ交通機関不備ニシテ村ノ発展ヲ助長スルモノナク、隣接諸町村ノ急速ナル発展ニ取リ残サレタル観アリ。

本村ノ交通機関トシテハ隣接セル金町ニ通ズル京成電車ヲ利用スルニ止マリ、村内ヲ通過スル交通機関全クナシ。

而テ村ノ中央部一帯ハ田畑ニシテ、家屋ハ其ノ周囲ヲ馬蹄形ニ包囲シ、未ダ全ク農村ノ域ヲ脱セザル情勢ニアリ。

本村ノ如ク全ク都心ヲ隔リタル地域ハ交通機関ノ完備スルニ非ザレバ、今後ノ発展遅々タルヲ免レザルベシ。

村ノ事業施設も亦概シテ見ルベキモノナシ。」(wikipedia)



さて、この長閑な農村地帯に、明治後半一つの小学校ができました。

「水元尋常小学校」です。

上の1900年頃の地図の赤い丸のところに学校の記号が見えますね。
右の「小合溜井」は、現在の水元公園。

その左手の網掛けの部分が住宅密集地ですので、そこからちょっと離れたところに、それこそ田んぼの真中に水元尋常小学校はありました。


水元尋常小学校は現在の水元小学校です。


水元小学校の片隅には、大正14年建造の木造校舎が現存しています。


都内では唯一残っているとのこと。


昭和57年まで使用されており、その後内覧できたのですが、現在は外観を見ることしかできません。


やはり鉄筋コンクリートの校舎と違い、温かみがあり、居心地も良さそうですよね。


私も小学校時代、(葛飾ではないのですが)木造校舎を使っていた時期があります。


しかしこんな大正時代の西洋建築のおしゃれなものではなく、外観も杢目そのままでした。


水元尋常小学校はハイカラでしたね。


明治維新後、1889年小学校令が発布されるまで、この水元には私塾市原堂という学校がありました。



市原大次郎という方の私塾でした。


東京の端っこ(失礼)ながら、そして田畑の広がる水元で、教育を熱心に行う人がいた。


こういう熱意が、日本の礎を築いてくれていたのだと思います。


市原大次郎については、別途調べてみようと思います。

2016年10月13日木曜日

[大人の一丁目一番地(24)] 東堀切1-1に行って来たよ。明治時代の南綾瀬村は陸前浜街道とともにあった。


今回は、東堀切1丁目1番地に行ってきました。


現在はとても静かな住宅街ですね。




この辺りは、明治時代まで「南綾瀬村」でした。


南綾瀬村は広大でした。



明治時代は(おそらく)住民も大きく増えていないのに、村の合併を行っており、南綾瀬村も「堀切」「上千葉」「下千葉」「砂原」「小谷野」「柳原」などを含むエリアでした。


常磐線と京成本線の間のうち、曳舟川から西側、千住の手前までが南綾瀬村、といったかんじでしょうか。


南綾瀬村の北には、綾瀬村がありました。

綾瀬村は新田が多い

綾瀬村は、新しく開拓された新田がたくさん集まってできた村でした。


それに対し、堀切などを含む南綾瀬村は、陸前浜街道(現在の水戸街道)や古東海道などで江戸中期から人口がある程度保たれており、にぎわっていた地域でした。


結果、昭和3年の町村制の施行によって、南綾瀬村は南綾瀬町となりましたが、綾瀬村は町とはなりませんでした。人口の数の違いだろうと思います。


常磐線でも、金町駅や亀有駅が1897年開業に対し、綾瀬駅は1943年開業と50年近く違っています。


南綾瀬村をにぎわせた一つの要因は陸前浜街道でした。


陸前浜街道は、千住の宿から新宿、金町と通り、江戸川を渡った松戸から一気に北上し仙台の手前まで通じていた、江戸時代の主要な街道の一つです。


途中、水戸を通り水戸徳川家に通じることから、一般の大名は参勤交代に使いたがらなかったという街道でもあります。


北関東や東北の太平洋側の農産物の多くは海路を通って江戸に運ばれていたようですが、この方面からの人の流れは陸前浜街道がメインであったことから、江戸直前の南綾瀬村周辺は、きっと人が多かったに違いありません。


農業の傍ら、お茶屋を営む家もあったでしょうし、人馬の需要もあったに違いありません。


一度、陸前浜街道をたどって歩いてみたいものですね。

2016年9月24日土曜日

[大人の一丁目一番地(23)] 四ツ木1-1に行ってきたよ。一ツ木、二ツ木、三ツ木、そして四つ木!


今回は四つ木1-1です。


小菅、堀切、四つ木、東四つ木、西新小岩など、葛飾区の荒川沿いは、荒川の開拓で村がなくなったり、人の流れが変わってしまったりした歴史を持ちます。


東四つ木の木根川薬師が移転したことなどが象徴的ですね。

■「一つ木」から「九つ木」まであるの?

「四つ木」というくらいですから、1~9まであるのかなぁ?と調べてみました。

刈谷市一ツ木:トヨタ自動車のおひざもと

松戸市二ツ木:常磐線馬橋駅のちかく

武蔵村山市三ツ木:狭山湖のちかく

葛飾区四つ木

熊本県球磨郡五木村:ごぞんじ五木の子守唄

足立区六木:葛飾区のすぐ横

7はありません

栃木県芳賀郡八ツ木:宇都宮駅から20キロ

9はありません



■京成四ツ木駅といえば

以前、「荒川開墾の頃の四ツ木駅と京成線の線路は今と場所が違う」というブログを書きました。記事はこちら

1917年

現在道路となっていて、新小52系統などが通る道になっているところが、以前は京成の線路だったようですね。

星印が昔四ツ木駅のあった場所


しかし戦後、セルロイドなどの工場が増えたのも、荒川の水運があったからだと思いますし、いろいろな意味で四つ木は荒川の開墾の影響受けている街ですね。

2016年9月21日水曜日

[大人の一丁目一番地(22)] 白鳥1-1に行って来たよ。あの「賀登利庵」さんだったとは!




今回は白鳥1-1です。


電柱が地下に埋まっている最近の街は、住所表記がなくて一苦労。


白鳥1-1は、お花茶屋駅前の東京東信用金庫の白鳥支店のあたりだろうと目をつけていたのですが、ココは1-2。



うろうろしながら見つけた1-1は、もうちょっと四つ木の方に降りた「賀登利庵」さんのあたりでした。




賀登利庵」さんについては、以前記事にしていますのでそちらもご覧になってください。



曳舟川は江戸の初期には、本所周辺に上水を提供するための川でしたが、水量が安定しないことから、江戸後半には田畑の用水や川の名前の由来ともなっている曳舟による物資輸送の川となっています。


この絵にもあるように、白鳥一帯は他の葛飾同様田畑でしたが、沼があったようですね。


古地図では確認できないのですが、いまの白鳥小学校から四ツ木斎場あたりまで、沼地だったみたいです。


そこに白鳥が群棲していたことから、この地を白鳥と呼ぶようになったとか。


をを、ちょっと優雅なおはなしですな。

朝日新聞デジタルより

四つ木の白鬚神社には、鷹狩の際白鳥を仕留めた絵馬が奉納されています。



2016年9月20日火曜日

[大人の一丁目一番地(21)] 高砂1-1に行ってきたよ。ここはかつて諏訪野と呼ばれた土地。


今回は、高砂一丁目一番地に行ってきました。



高砂一丁目は、この地図にあるように、まさに中川と新中川の分岐部分に位置しています。



写真の高砂1-1は、スポーツセンターエイトホールの向かい側。


住所表記こそありませんでしたが、ココが1-1のようです。




「葛飾コンテナ中継所」?


ここでは葛飾区のゴミを集めて、焼却施設に持ち込む前に積み替える場所ですね。


環七も通っていて、川の分岐点で離れ小島的な要素も持ち合わせていますので、ゴミの処理には持ってこいかもしれません。


高砂一丁目は、昔は諏訪野という地名でした。


現在でも諏訪野熊野神社として地名が残っています。


高砂の地は、以前は曲金(まがりかね)と呼ばれていましたが、葛飾区が東京都に編入された頃には、謡曲からとったおめでたい高砂という地名になっています。


諏訪野の地は、この曲金と地続きであったのですが、時代とともにその位置づけが変わってきます。


中川の氾濫対策から、1964年に新中川が開通し、諏訪野は高砂とは地続きではなくなります。


どうじに、現在のエイトホール周辺が中川の洲となっており沼地であったことから、その干拓工事もはじまります。


このころの諏訪野は、ほとんど島ですね。


その後、干拓が進みスポーツセンターとして整備されるとともに、諏訪野には南北に環七が完成することとなります(1985年)。


これらにより、高砂一丁目は、他の高砂とは違った歩みをしていくわけです。

2016年9月14日水曜日

[大人の一丁目一番地(20)] 西亀有1-1を歩いてきたよ。陸前浜街道に賑わった街


今回は西亀有1-1に行ってきました。


西亀有は、裕福なエリアだったと思います。


大きな家が多く、区画も広い。


もちろん農家が多かったはずですが、このエリアはほかの葛飾とちょっと違います。


理由は、おそらく、陸前浜街道にあったと思います。



陸前浜街道とは、現在の水戸街道。


千住の宿場を起点として、現在の常磐線沿いを水戸に抜け、そのまま海沿いを仙台まで続いていく陸前浜街道。

スカイツリーから一直線に金町駅前に通じる今の水戸街道と違い、人が歩く水戸街道はもっと北寄りにクネクネしていました。



左の地図が明治末期の陸前浜街道です。


千住の宿から新宿の宿まで約5キロ。


その中間地点にある西亀有近辺は、そのころ砂原、千葉という地名でしたが、宿場こそないものの、人通りのおおい街道筋として、物販や休憩所などで栄えていたものと思われます。


折しも江戸時代の新宿の宿場は、水戸徳川家に通じる街道だったこともあり、交通量は少なくありません。


茨城や房総半島の海産物が江戸に運ばれる主要ルートでもあり、途中西亀有で農産物と交換されたことも容易に考えられます。


葛飾のほとんどがかつては農地でしたが、この陸前浜街道沿いの街では商業的要素も加わって、他のエリアより裕福に過ごしていたのかもしれません。

2016年9月5日月曜日

[大人の一丁目一番地(19)] 小菅1-1に行ってきたよ。日本で最初の小学校は小菅にある。


今回の一丁目一番地は、小菅1-1です。


小菅といえば東京拘置所ですね。

Wikipediaより


東京拘置所も確かに「小菅1丁目」なのですが、住所は小菅1-35でした。



さて、小菅1-1は、トップ画像にあるように「国土交通省綾瀬排水機場」です。


綾瀬川と荒川土手の間にあります。


チャリで行くのに、ちょっと苦労しました。




ちょうど荒川が千住の方からカーブしてきて、綾瀬の方から降りてくる「綾瀬川」と並行し始めるところです。


ところで、綾瀬排水機場ってなにするところでしょうか。

排水機場は台風などの大雨のとき、中小河川の洪水をポンプにより江戸川などの大河川へ強制的に排水する目的を持っています。江戸川河川事務所では、7つの排水機場を運営管理していますが、なかでも首都圏外郭放水路、三郷放水路、綾瀬川放水路、坂川放水路に設置された排水機場は国内最大級の規模を誇ります。(江戸川河川事務所HP)
国内最大級ですって!

台風などの時は、この排水機を使って、綾瀬川が溢れないように中川へ押し出しているのですね。

この排水機場については、「[大人の堀切] “普段入れない”堀切菖蒲水門の内部をお見せします!~完成後20周年記念イベント~」にくわしいです。


日本最初の小学校


川に挟まれたこのエリアには、お寺が一つあります。

正覚寺といいます。




荒川の開墾、綾瀬川の整備にも耐えて、この地に残っています。



じつはこのお寺には小学校がありました。


日本で最初の小学校です。


時代は遡ること明治維新。


以前このブログでも記事にしたように、明治初頭にこの地に「小菅県」という県が置かれました。


県庁は今の東京拘置所のところです。


そして小菅県は、新政府の方針に従って、小学校を作りました。


それがこの正覚寺にあったわけです。


しかし明治4年には廃藩置県で小菅県はなくなり、明治6年には学制発布があったことから、この正覚寺の小学校は廃止となりました。



ちなみに、明治6年の新しい学制発布でできた小学校は「亀青小学校」や今の「新宿小学校」だったそうですよ。


こういう史跡は、区としてももっとアピールして欲しいですね。

2016年8月30日火曜日

[大人の一丁目一番地(18)] 堀切1丁目1番地に行ってきたよ。大正初期まで、ちょっとしたピクニックの目的地


今回は、堀切1丁目1番地です。


堀切という住所表記は広いですね。



現在でも、南に四つ木、北に足立区と接する南北に広い地域です。



しかし荒川の向こうには、東武線の堀切駅があるぐらいですから、荒川が開通する大正初期にはかなり広い土地を指していたのではないでしょうか。


1900年頃の堀切周辺です。


この頃は、「南綾瀬村」というところに属しており、名前通り綾瀬の南側でした。


現在の堀切の住所は、この南綾瀬村のほとんどを引き継いでいるようです。


堀切といえば菖蒲園


上図に赤い印をつけたのは、堀切周辺にあった「菖蒲園」です。


現在は「堀切菖蒲園」ひとつだけが有名ですが、太平洋戦争以前にはこのあたりにはいくつもの菖蒲園がありました。


菖蒲園のエピソードについては過去の記事を参考にしてくださいね。


さて、堀切菖蒲園。


荒川が開通する前には、堀切菖蒲園にもっとも近い駅は、東武伊勢崎線の堀切駅でした。


荒川が開通したことで、東武伊勢崎線は葛飾区の対岸となり、堀切駅は川の向こうとなってしまいました。



東武伊勢崎線堀切駅は、近所に鐘淵紡績(旧カネボウ)の工場がありかなり賑わっていたことが予想されますが、観光地としての堀切菖蒲園が捨てがたかったのか、駅の前から荒川を渡る橋をかけています。旧堀切橋ですね。現在の高速道路のあたりです。

明治大正までのピクニック

堀切菖蒲園にかぎらず、どうやら江戸時代のころには、「大川(隅田川)の向こうの菖蒲がたくさんある所」として、ピクニック気分で訪れるエリアだったようですね。


もともと堀切周辺は、江戸に花を売りに行く「花農家」が多かった場所。


春になって、気候も良くなって、「花でも見に行こうか」なんて気分になると、堀切に行ったのかもしません。


当時は細い綾瀬川しか通っていませんでしたので、粋な江戸の人たちは、綾瀬川に船を浮かべて菖蒲を楽しんだに違いありません。



2016年8月25日木曜日

[大人の一丁目一番地(17)] 東金町1-1に行ってきたよ。東金町は、今も昔も再開発のどまんなか。江戸時代には、金町に関所があったんだね。


今回は、東金町1-1に行ってきました。




なかなか場所がわからなかったのですが、それもそのはず。東金町1丁目1番地は、再開発されてマンション「プラウドシティ金町アベニュー」となっています。




このシリーズ、なんどか住所表記のない回がありますが、今回も住所表記板は見当たりませんでした。


再開発しちゃうと、また最近の個人情報なんちゃらで、あんまり表記しなくなっちゃうみたいですね。


さて、この東金町。


江戸時代の金町村の大部分を引き継いでいます。


金町村には関所があったんですね。




金町松戸御関所



江戸時代、陸前浜街道(水戸街道)は、千住の宿を過ぎ、新宿をすぎると、北東に上がっていきます。


上図の赤線が、旧水戸街道です。


右上に松戸宿がありますが、その直前に江戸川を渡るところに、金町松戸御関所がありました。白い星印のところです。


現在、このような石碑のみがのこっています。


おそらく、素人考えですが、実際の関所の位置はここではなく、もっと川沿いにあったのではないでしょうか。


明治40年と現在の地図(同位置)



この地図は、明治40年頃と現在の地図を比較したものです。


関所の跡という石碑の位置を赤い星で表しています。


江戸川は本来、川幅100メートルぐらいの川でしたが、度重なる水害への対策として、河原を広く整備するようになり、本来関所のあった場所は、すでに川の中になってしまっている可能性が高いです。


現に、参勤交代の時などは、「関所から松戸宿までを船を並べて橋を掛けた」との記述もあり、関所はもっと川側にあったと推測されます。


いずれにせよ、水戸街道を歩く旅人は、千住から金町の関所を過ぎ、松戸の宿で一休みしたのでしょう。


また徳川幕府としては、北条氏をさんざん悩ませた房総半島の豪族を牽制する意味もあったと思います。


新宿にせよ、この関所にせよ、江戸時代には、東海道・奥州街道に次ぐ交通量があった場所にもかかわらず、なにも当時を偲ぶものが残っていないのは残念ですね。

2016年8月8日月曜日

[大人の一丁目一番地(16)] 新宿(にいじゅく)1-1に行ってきたよ。ここは常磐線が通るまでの交通の要所。道中奉行が支配した新宿に栄華を見る。


今回は新宿です。



中川の東岸からの水戸街道の南北、そして常磐線の北側現在の東京理科大学周辺あたりまでのエリアを指します。





新宿は、葛飾区唯一の宿場町。


江戸時代には「陸前浜街道」の宿場町であり、「水戸佐倉道」との分岐点でもありました。


「陸前浜街道」とは現在の水戸街道を指します。


現在の国道6号線ですが、ルートは今の道路とはかなり違います。


陸前浜街道

この地図の赤い線が、陸前浜街道。斜めに走る紫の線が現在の水戸街道。下に降りる青い線は後述する水戸佐倉道です。


新宿の宿

千住の宿を出ると次が、この新宿の宿。


新宿の宿は、東海道などの五街道同様、道中奉行の管轄地。


道中奉行管轄の宿は、それ以外の宿と違って、駅伝などで使われる馬が常備され、一里塚が置かれ、街道に並木があるなど、幕府の意向が反映された宿でした。(新宿には本陣はありません)


新宿の宿は、治安の意味もあり、直線ではなくカギ型の街になっています。


宿としての旅籠は4件だけだったようですが、地域の中心地であったことは間違えありません。


江戸方面から、「上宿・中宿・下宿」と街の名前が分けて付けられており、繁栄の様子が伺えます。


wikipediaより

水戸佐倉道の分岐点

新宿の宿のもう一つの特徴は、水戸佐倉道の分岐点ということです。


新宿に始まり、葛飾区を南東に下って行き、江戸川を渡って千葉に入る水戸佐倉道は現在の「成田街道」です。

水戸佐倉道

高砂に「桜道中学校」がありますが、学校名の由来は「水戸佐倉道」にあります。


常磐方面の農産物を運ぶ水戸街道がある上に、房総方面の野菜や肴を運ぶ成田街道の分岐でもあった新宿は、それなりに反映していたに違いありません。


同じ葛飾地域でも、五街道と同じ格が与えられていたという特別な土地だったような気がします。

明治17年中川橋開通と常磐線


また明治17年になって中川に架けられた「中川橋」は有料でありました。


開通当時の中川橋

これらの繁栄があったからでしょうか。


常磐炭田から石炭を運ぶために常磐線が敷かれることとなった時、新宿にも駅を作る話がありましたが、街道と中川橋で繁栄してきた新宿は駅の設置を断っています。


これにより1897年9月に亀有駅ができ、12月には金町駅ができて、新宿は駅に挟まれる形となってしまいました。


現在では水戸街道も新しく設備されてしまい、また本陣もなかったことから、現在は宿場町の形跡は見つけづらくなっています。